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野口 量

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アニメーションダンスという分野で一世を風靡したチーム無名(ウーミン)のメンバーであり、ダンスパフォーマンスユニットWORLD ORDERのチーフコレオグラファーとしても活躍していた野口量。振付師として数々のCMやイベントを手掛ける中、自主製作で作った映像作品が世界でも評価されるなど、映像作家・演出家としても注目されている彼に、自身のクリエイションや想いなどを語ってもらった。

 


 

 

  • 野口 量

世界的ダンスグループ「無名(WOOMIN)」「WORLD ORDER」を経て、2013年3月に「左 HIDALI」を設立後、2018年8月に独
立。計算され尽くした機械的な動きや、視覚的錯覚を熟知した作品作りで世界の注目を集め、ミッシー・エリオットやウィル・アイ・アム、マーティン・ソルヴェグなど世界的アーティストから名指しで振付けの依頼を受ける、日本を代表するアーティスト兼振付師。演出やステージング、コンセプトアドバイザーとしても活躍。カテゴリは映像作品、ライブ、インタラクティブコンテンツなど多岐にわたり、言語や文化を越えた身体表現の独自のアイデアに定評がある。

 

 


 

■姉の助言とRAVE2001がきっかけで始めたダンス

TDM:ダンスを始めたきっかけを教えてください。

ダンスをしていた姉が、何も趣味を持ってなかった当時12歳くらいの僕に「ダンスやってたらモテるよ」と言っていたんですが、その時はダンスは女の子がやるものだと思っていたので興味が持てませんでした。
それから6年後、18歳の時に、RAVE2001というテレビ番組に出ていたGOGO BROTHERSを見て、衝撃を受けダンスを始める決意をしました。姉に「ダンスやろうと思うんだけど、何からやればいい?」と聞いたら、首や胸をバラバラに動かすアイソレーションを教えてくれて、全然面白くないなと思ったのが僕のダンスの始まりです。
姉に自宅で習っていても素直に言う事を聞けず、習い事の情報誌「ケイコとマナブ」でダンススクールを探して、直感で原宿のミラクルズ・ダンススタジオに行き、GOGO BROTHERSがかっこいいと思ってたのでロックダンスから始めました。レッスンに行ったら、僕以外の人たちが上手くて恥ずかしかったのを憶えています。当時古着で踊るのが流行ってたのか、先生がレッスンなのにヴィンテージっぽいジージャンとジーパンで踊っていて、かっこいいと思っていましたね。

TDM:そこからダンスにはまっていったのですか?

その当時、僕は美容師をしていたので、毎週休みの火曜日は必ずレッスンに行っていました。毎日、仕事の後は髪を切る練習を23時頃までして、それから家に帰って深夜1時頃から5時までダンスの練習をして、朝は遅刻していく日々を美容師をやめるまで6年間くらい続けていました。チームもなくて、今みたいにダンスサークルなども少ないし、レッスンでも人見知りで皆とそんなに仲良くなれなかったので、1人で耽々と練習して、クラブに友達と遊びに行って自由に踊るみたいな日々でした。

 

 

TDM:転機になった出来事は何ですか?

毎月チャンピオンを決めて、その年の最後に年間チャンピオンが決まる雑誌「movement」主催のコンテストがあって、毎月1位から3位のチームが雑誌にかっこいいポーズで掲載されていて「やばい!これ載りたい!」と思ったんです。それで沖縄から上京していた僕と同じくチームを組んでいなかったダンサーのキッキィとノリでチームを組んで、新宿の安田火災ビル(※現・損保ジャパン日本興亜本社ビル)や、駒澤大学の駅前で練習してる人たちの中から、黄帝心仙人とユキヒロに声をかけ、4人で無名(ウーミン)というチームを組んで、そのコンテストに出ました。そして、優勝して念願の写真も取れて、そのまま年間チャンピオン大会で優勝する事が出来たんです。
年間チャンピオンになったら、イベントのオーガナイザーから「無名でゲスト出演してくれませんか?ギャラは1人5000円です。」と声をかけてもらい、「踊ってギャラも貰えるの!?」と驚きました。そこからイベントのオファーが増え美容師を辞めるか、ダンスを辞めるかという選択になり、美容師を辞めたんです。

 

■バトルから表現の世界へ

 

TDM:その後はどんな活動をしていましたか?

無名としての活動は約2年で、行きたい方向性の違いも出てきて活動休止に入りました。その頃からバトルコンテストが盛りあがり始め僕は「バトルに勝たないとダンサーとして上に行けないんじゃないか」という思考に陥り、来る日も来る日もフリースタイルの練習をして、結果を残すためたくさんのバトルに出ていました。

TDM:今の活動からは想像がつきませんが、バトル生活から転機になった出来事があったのですか?

27歳の時に初めて行ったN.Y.ですね。MarjoryEjoeなど、ダンサーがクラブで踊っているのを見て、今まで〝ロック〟や〝ポップ〟などカテゴライズされたバトルに出ていたけど、N.Y.では皆どの音でも踊るし、やっぱり音楽が凄く好きというか、音楽を楽しむ文化が定着しているのを肌で感じたんです。
それから日本に帰ってきてバトルに出ても、今までみたいに夢中になれなくなってしまいました。バトルは、ジャッジがいて、勝ち負けを決めますが、それよりも、いろんな音楽で、いろんな人種が空間をシェアするという方が楽しく思えて来たんです。

TDM:そこからどういった活動を?

その後、新潟で活動してるNoismというコンテンポラリーのカンパニーの「NINA」という舞台を観に行って、「こういうダンスをしてみたい!」と衝撃を受けたんたんです。
それから武元賀寿子さんという素晴らしい舞踏家が主催している、コンテンポラリーダンサーやモダンダンサーたちが即興で創る空間をお客さんが見て価値を感じるパフォーマンスに飛び入りで入って踊ったりしていました。コンテやモダンの方たちと踊り始めたのは30歳くらいの時ですが、並行してWORLD ORDERの活動もしていました。

TDM:WORLD ORDERはどういった経緯で入る事になったのでしょう?

プロデューサーの須藤元気さんがWORLD ORDERを結成する際に、以前、無名の4人で出演したユニクロのCMをYouTubeで見て、「この振付をスーツを着てゲリラで踊りたいから、これを振付した人を呼びたい」という事で、僕とキッキィさんが誘われたんです。

TDM:突然来たオファーだったんですね。WORLD ORDERの活動はどうでしたか?

2009年から2013年までやっていましたが、魅力的でしたね。僕は映像やライブのディレクションから振付までメインでやらせてもらえたので、ロケハンに行ったり、映像の編集まで関わらせてもらいました。曲に関しても「ここでこういうダンスしたいからスネアの音が欲しい」とか「ここの間奏は16小節は欲しい」など、全てのクリエイティブに携われたので、有り難かったです。ミュージックビデオを撮ったり、海外から仕事のオファーがあったり、大変でしたが楽しかったです。

 

■振付ユニット「左 HIDALI」を結成

 

TDM:WORLD ORDERを辞められてからはどんな活動していましたか?

WORLD ORDERのライブの演出を一緒にやっていたトラックメーカーの今井悠と、演出チームで一緒にやっていた梨本威温と3人で振付ユニット「左 HIDALI」を結成しました。〝WORELD ORDERの振付師〟という肩書きの賞味期限は短いと思っていたので、賞味期限内にどんどんクリエイティブ活動をして世の中に発信していかないともったいないと思い、すぐ映像作品を創りました。
最初は仕事をどうやって取っていいのか分からなかったので、友達のプロデューサーに、「仕事が欲しいんだけどどうしたらいい?」とダイレクトに聞いたら、「コマーシャル・フォトという雑誌に、プロデューサーやディレクターの連絡先が載っている〝ディレクターズファイル〟というのが1年に1回付いているから、そこに作品を送ってみれば?」と言われて、初めてHIDALIで創った〝残暑見舞い〟という映像作品を、そこに載ってた連絡先500件くらいにバッと送ったんです。

TDM:500件ですか!?凄い!反響はありましたか?

結構反響があって、初めての依頼は某遊園地のCMだったんですけど、僕らは今までは演者だったし、グループの中で活動してたので、振付師の仕事の単価が分からなかったんですよ。CMだし「最低200万円からです」といったら「え!そんな高いんですか!?」とその話は流れちゃっいました。案件ごとにやり方やギャラも様々で、だんだんやりながら分かっていきました。

TDM:作品作りをする時のインスピレーションはどこから?

何時も眠る前にアイデアを考えています。あまり他の動画を参考にしないですが、それは必ずという訳ではないです。

 

 

 

■演出家とは〝想像を形にする船(チーム)を作り、難破させずゴールまでもっていける人〟

 

TDM:内側から出て来るものを表現するタイプなんですね。

そうですね。今撮りたいのは相撲部屋で太ったダンサーどうしが張り手をしあい、パチンッという音がだんだんリズムになってきて音楽の世界に入っていく、、みたいな。まだ触りだけなんですけど。
そうやって日常をドラマに変える、みたいなことが好きです。「このシーンは何かに使える」と閃いたら、家に持ち帰って寝る前にまた考えます。

TDM:寝ながらですか?

:そう。本当にそのスタイルが、僕は一番リラックスして考えられる。

TDM:ズバリ、RYOさんが思う「演出家」とは?

想像を形にするチーム作りが出来て、そのチームという船を難破させずゴールまでもっていける人が演出家ですかね。

TDM:テレビやWebのCMや、ミュージックビデオ、イベントの振付などやられている中で、どんなお仕事が楽しいですか?

どんなお仕事でも企画段階から入れるものが、チームで一緒に創り上げていく感覚で好きです。

 

■人にもクリエイションにも誠実でいたい

 

TDM:クリエイション活動で印象的な出来事はありますか?

はい。監督、振付した自主制作の映像作品にイギリスのバンドRadioheadの楽曲を使いたかったんですけど、許諾を取るのが凄く難しかったんです。楽曲の権利問題のハードルがあり、映像のコンテストに出すことを諦めていたんです。そんな時に、たまたま友達のプロデューサーと飲みに行ってその話をしたら、「俺にワンチャンくれない?」と言ってくれて、次の日に渋谷で会ったんです。
「今日は俺RYOちゃんにプレゼンしたくて3つ選択肢を持ってきた。違ったら違うって言うって、約束ね。1つ目は、RadioheadのメンバーにFacebookで直に許諾を取りに行くから、この作品のプロットなどを正確に教えて欲しい。2つ目は、俺の友達のミュージシャンの曲がこの作品にはまると思って、音をこの映像に当ててきたから見て。ダメだったらダメって言ってね。3つ目は、広告で一緒に仕事している楽曲制作の会社があるんだけど、そこの人達と音楽作らない?」と。とりあえず2つ目は見てみたら違ったので正直に違うと答えました。3つ目は、「予算もないし、友達でもなんでも無い自分と、もし方向性や音楽性が合わなくてやっぱり違うとなったら最悪な結果になっちゃうから…」と言ったら、「そこは、お金の心配も人間関係も全部俺が責任持つから、RYOちゃんは作品を1ミリでも良くする事を考えて!」と。そして、「俺は取り柄はないけど、1つだけ取り柄があるとしたら、作品を少しでも良くする事だけが出来るんだよ。RYOちゃんはこの人たちと合わなかったら次世代の人たちと仕事すればいいんだよ。だから諦めちゃダメだ」と言ってくれたんです。
結果的に僕の知り合いの1人のミュージシャンが頭に浮かび、曲を作ってくれたんですが、そのプロデューサーの友達は仕事でも何でもないのに、そこまで真剣に向き合ってくれて、その姿勢には感銘を受けました。おかげさまで、その「Splendor」という作品は、昨年の6月に「GINZA SHORT FILM CONTEST 2019」で、優秀作品賞を頂き、他にも国内外で4つの映画祭で上映、ノミネートされました。

 

「Splendor」

 

TDM:才能を買ってくれているんですね。そういう出会いをしてきた中で、今は何を一番大切にしていますか?

今一番意識している事は、誠実でいようという事です。今までも、意識していても出来てなかった事も沢山あるし、相手にとっては不誠実になっちゃっていたりする事もあるので、僕はたくさん失敗もしてきてるんですけど、誠実でいるというのはとても難しいと事だと思います。人に対しても、自分のクリエイションに対してもですね。

TDM:今後の目標を教えてください。

今年は初めてアーティストのMVの監督をやらせて頂く事になりました。時代に左右されない愛される映像を撮りたいです。最後になにげない朝をテーマに、友人宅にて撮影した作品を紹介させてください。

ぬくもりが恋しい季節
休日の朝のコーヒーブレイク
なにもしていないのに、二人だと、なんだかたのしい

「Couple」

Be smile and happy!!

TDM:今後の映像作品も楽しみにしています!今日はありがとうございました!

 

interview &edit by Yuri Aoyagi
photo by AKIKO
’20/2/14 UPDATE

 

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tokyodancemagazine

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