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Kyoka

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キッズダンサーという言葉がまだ世間に今ほど浸透していない時代から、MAiKAと共にRUSH BALLを結成し、元祖スーパーキッズダンサーとして常にキッズダンス界を牽引してきたkyoka。数々のバトルやコンテストで功績を残し、「Juste Debout 2016」、そして「WDC 2019 FINAL」と、MAiKAと共に世界一の称号も手にした。昨年Red Bull Dancersに加入し、現在世界を飛び回り活躍するkyokaに、今までのキャリアや転機、ダンスに対する想いなどを聞いた。

 


 

  • Kyoka   

(RUSHBALL /REDBULL DANCER)

8歳の時にDANCEを始め、相方であるMAIKAとRUSHBALLを結成!数々のコンテストで結果を残し、コンテストだけでなくBATTLEでもその実力を発揮!今では海外にもGUEST SHOWやJUDGEなどで呼ばれ、日本人だけでなく海外のダンサーとshowしたりと活動の幅を広げている。2016年には遂に世界で一番デカイ2on2バトルjuste debout hiphop sideでMaikaと共に日本人初の優勝を果たし、世界一のタイトルを手にした。

 


 

■ 揺るぎないMAiKAとの絆

 

TDM:ダンスを始めたきっかけを教えてください。

kyoka始めたのは8歳の時です。2人の兄が小さい頃から空手をやっていて、楽しそうだから私も始めたんですけど、そもそも戦うのは好きじゃなかったし、痛いのも嫌でちょっとだけやって辞めました。兄2人はけっこう強くて毎回トロフィーを持って帰ってくるのに、自分だけ持って帰れないのも悔しかったんです。

それで、当時はモーニング娘。が流行っていて、ミニモニが好きだったので、「ミニモニ。みたいに踊れるで」とお母さんに言われてダンスを始めました(笑)。その時最初に行ったスタジオでMAiKAと知り合いました。

TDM:相方のMAiKAさんとはもうそこからの知り合いなんですね!

KyokaMAiKAは、めっちゃ小さいのに、3、4歳くらいから始めてるからその時点でバリバリ上手くて、「なんやこのコ!?」って思いました。始めて1カ月くらい経った時MAiKAから「一緒に組もう」と声をかけてもらってチームを組んだんです。

うちのお母さんは、そんな上手い子に声をかけられた事を喜んでいたんですけど、私はそこからが地獄の練習の始まりでした(笑)。兄が空手をやっていた事もあるし、父は昔ジェットスキーの選手で、元々「やるならちゃんとやれ!」というスパルタな家族で、めちゃめちゃ練習させられましたね。

 

 

TDM:そこからずっとRUSH BALLですか?

Kyokaはい、今年で15年になります。私達は、故WILD CHERRYさんをはじめ、D’OAM、WRECKING CREW ORCHESTRAの皆さんにずっと可愛がってもらってきたので、師弟共演みたいな感じで、育てていただいた人達に出てもらって、今年の5月にアニバーサリーイベントをやりました。

MAiKAとは考え方も違うし、ぶつかる事もありますが、ケンカとかはあまりしないです。MAiKAは何でもいいよっていうタイプで、私はあれ嫌これ嫌ってなっちゃうタイプなので私が全部決めてるんですけど、それに対して、MAiKAはリスペクトしてくれています。逆に私がMAiKAに対してリスペクトしている所は、「バトルには絶対勝つ!」みたいな気合で、「勝ちしかない」と思っている所ですね。

TDM:不思議な絆ですね。

Kyoka同じ辛さを知ってる同士だからだと思います。キッズダンサーが勝ち上がっていく為には、子供も親もそこに対しての意識が同じだけ強くないと成り立たない。MAiKAも小さい時から厳しく育てられてるから、「そこをコアに分かってる2人だから一緒にやれるっていうのはあるよね」と、話した事はあります。

 

■自分のダンスが好きだからやってこれた

 

TDM:今、頑張ってるキッズ達を見てどう思いますか?

Kyoka今のキッズがどうなのか分からないですけど、キッズはお父さんとお母さんがある程度厳しくないと絶対育たないと思います。年齢が若ければ若いほど、やっぱり遊びたいし、自分の意識だけでそこまで強くなれないので、そこを親もあえて我慢させてやらせなあかんから辛いと思うし。

一回優勝したりして、その嬉しさを知ってしまえば頑張れるんですけど、嬉しさを知るまでの期間はほんま辛いと思う。それこそ私はMAiKAに追いつくのに必死やったから、その期間が一番ハードでしたね。

だから、泣いてる子供とか、練習ばかりでストレスが溜まってるようなキッズを見ると、「ああ懐かしいな、こんな感じやったな」って思うけど、でも、強くなるんやろな!って思う。私もそれがあるから今があるので。その時は辛かったけど、今は厳しくしてくれた親に感謝しています。

TDM:プロになろうと思ったのはいつ頃ですか?

Kyoka意識的には、ずっと可愛がってくれていたCHERRYさんが、礼儀やプロ意識に関して厳しい人だったので、プロ意識のようなものは小さい時からありましたね。ただ、どこからプロというような境目をあまり分かってなかったので、とりあえず「世界一のタイトルをとりたい」という目標を掲げながらやってきただけです。

 

 

TDM:ダンスを辞めたいなと思った事はありますか?

Kyokaもちろんあります。名前がある程度知られてる分、期待されるので、「その期待に応えなあかん、絶対勝たなあかん」というプレッシャーがしんどくなった時ですね。基本的にバトルは好きじゃないので、小・中・高、20歳になってからも、それぞれでそういうタイミングはありました。今は吹っ切れましたけどね。

TDM:そんな思いの中で続けてこれたモチベーションは?

Kyoka〝自分が自分のダンスを好き〟という事ですかね。バトルで負けても、自分のスタイルが好きやから、これで負けたならええかなって思えるようになりました。でも、そう思えたのはほんまに最近で、去年RedBull Dancersに入ってからですね。

勝ち続けなければいけないという契約があるわけではないですが、強いイメージのあるRedBullを背負ってるという感覚があるから、ちゃんとブランディングして出ないと絶対ダメだという意識が出てきました。

 

■病気から〝生かされた〟からには踊らないと

 

TDM:ダンスを続けてきた中で転機になった事はありますか?

Kyoka3年前に病気になった事です。ちょうどThe 90s ASIAというユニットで舞台をやらせてもらってる時だったんですけど、深夜練して、昼にリハして、移動して、ジャッジの仕事して…みたいな生活が続いていて、忙しすぎて免疫力が急激に低下していたらしく、小さな擦り傷から菌が入って、普通やったら自分が持ってる菌で殺せる菌が、激変して人喰いバクテリアという菌に感染しちゃったんです。

ちょうど東京にいて、腕パンパンで動けへんし、痛かったけど、「受けてる仕事やからちゃんとこなさなあかん」と思って片手でワークショップしてたら、どんどん立ってもいられへんようになってしまったんです。千葉の救急病院に行ったら、筋肉の炎症やから冷やしてたら治tるって言われたんですけど、当然治らず、大阪に帰ってすぐ大きい病院行って、血液検査してやっと分かったんです。

その時、The 90s ASIAでベトナムに行かなあかんかったので、「ベトナム行かなあかんから入院してられへん」て言ったら、お医者さんから「そんなん言うてる場合ちゃうよ!即手術しなきゃ腕は切断になる」って言われたんです。若い分、菌が回るのが早かったらしくて、肝臓とか内臓系にも菌が回っちゃってたらしいんです。でも、お父さんが「先生、切断だけはちょっと待ってくれ!」と懇願してくれて、先生もなんとか切断にならないよう頑張ってくれました。

 

TDM:相当痛かったと思うのですが、どんな手術と治療だったんですか?

Kyoka手術で腕を切開して、開けたまま1週間放置して、毎日洗って菌を出して、全部菌を出しきってから縫うという治療でした。腕は固定されてるので見えないんですけど、洗う時に染みてめっちゃ痛いんです。でも、その治療中に腕の反対側が腐ってきちゃったんですけど、縫う皮膚がないから、今後お尻から皮膚を持って縫うか、という瀬戸際の時に、皮膚を再生させるスプレーというのを試してみたら効果があって、今の状態まで戻ったんです。でも、未だに感覚は、直接骨を触られてるような感じですね。踊る分には全然大丈夫ですけど、傷が大きいので、冬とか飛行機の気圧の変化とかあるとやっぱり痛いです。でも、切断かもって言われてたから、腕があるだけでいいです。

 

 

TDM:当時はどういう事を考えましたか?

Kyoka腕はあったし、HIP HOPは足がメインなので、もう踊れないかもとは思わなかったですけど、手術したばっかりの時は、固定されてたから「もうウェーブ通されへんのか…」って思いました(笑)。
でも、回復してからは、〝生かされた〟という意識が生まれて「生かされたからには踊らないと!」という気持ちになりました。

TDM:そこから自分のダンスにも変化がありましたか?

Kyoka変わったと思います。まず、音楽の聴こえ方が全然違ったんです。今までは意識しないと、ドラム、ベースなど聴き分けられなかったものが、なぜか鮮明に単品でちゃんと聴こえてくるようになったんです。メンタルも変わってきて、今までは休みたい時も無理してやってる感じがあったけど、休みたいんやったら休めばいいかなと思えるし、「自分の好きなように生きよう!」と思うようになりました。

ほんまにいろんな人にサポートしてもらって復活出来たので、それもあって人に対してリスペクトする気持ちや感謝の気持ちも強くなりましたね。特に家族には感謝しています。元々仲は良いんですけど、絆はより強まりました。

 

■人の気持ちを動かすようなダンスを踊りたい

 

TDM:ダンスのインスピレーションはどこから得ていますか?

Kyoka映画ですね。ムーブの数を増やすというよりは、1つのムーブで表現方法をいっぱい持っていたいので、表現力とかアプローチの仕方のインスピレーションになります。そんなに深くフォーカスして観ているわけではないんですけど、「こういう仕草をしたら哀しく見えるんや」とか、観てるだけで勝手に頭に入ってる感じです。

だから、『グリーンマイル』とか感情深い映画が好きですね。そういう人の気持ちをグッと動かせるようなダンスが出来たらなって。もちろんコンテンポラリーなどのジャンルの方がそういうのを表現しやすいとは思うんですけど、それをストリートダンスで…となると難しいと思うから、あえて挑戦していきたいですね。

TDM:他に挑戦してみたい事はありますか?

Kyoka最近、RedBullで、少林寺とフラメンコとカポエラを習って、それを自分のスタイルに取り入れて映像作品を作るという企画をやらせてもらったんですよ。少林寺は、中国に行って酔拳を習って撮影したんですけど、空手をやってたので、出来るかなと思ったら甘かった。習う期間も3日間しかなかったし、やっぱり少林寺はダンスじゃないからなかなか難しかったです。

カポエラは日本でブラジルの先生に教わって、フラメンコはHIP HOPに取り入れるので、男性のステップを習ったんですけど、音の取り方が全然違うから、カウントが全然数えられなくて苦戦しました。でも、凄く楽しかったので、そんな感じで、ベースのHIP HOPに、いろんなテイストを入れて踊る事をしていきたいです。フラダンスとか、アフリカンや民族系とか。日本舞踊もゆくゆくは取り入れてみたい。

やっぱりHIP HOPはアメリカの文化を学んでやってるからどうしてもナチュラルじゃないんです。例えば、アフリカ人のダンサーはアフリカンダンスが普通やから、そういうテイストを出せるけど、じゃあ日本人はどうや?ってなった時に、日本舞踊なのかなって。

 

 

■今後はダンス以外のも事も学んでいきたい

 

TDM:最近の活動を教えてください。

Kyoka今は地方や海外でのワークショップやジャッジの仕事が多いですね。海外は、フランス、オーストリア、ポーランドなどヨーロッパによく行きます。仕事のオファーを受けるのもスケジュール管理も全部自分でやっているので、Wブッキングしないように気を付けながらやってます。ダンサーって、オーガナイザーなどと直接やりとりして分かる部分があるので、あまり間に人を挟みたくないんです。

TDM:自分のようなキッズダンサーを育てたいという気持ちはありますか?

Kyokaない事はないけど、今はまだ、下の子に向き合うというよりは、背中を見てて欲しいです。でも、若い子達は常に新しいものしか見ないから、特に大阪の人達が大事にしている昔のシーンやカルチャーを残していこうという想いは引き継がなきゃいけないと思っています。それこそCHERRYさんの事も知らない子の方が多くなってきたけど、大阪のダンスシーンはCHERRYさんなしでは語れない。だから、そういう事を伝えられるギリギリの世代の私達が何かしていかないとダメだなとは思っています。

TDM:今後の目標はありますか?

Kyoka個人的には、違う事をやって違うものを学びたいという気持ちが強い。さっきも言ったように、他ジャンルのダンスを習うとか、例えば音楽を勉強したり、何か楽器をやったりもしてみたい。ストリートダンスシーンばっかり見てても、得られるインスピレーションは限られているから、新鮮なものではないんですよ。違う事してみれば、また違うものが見えてきたりするかもしれないと思いますね。

でも、RashBallとしては大会とか出ていきたいなっていう思いはあって、15周年を迎えたので、こっからまた一歩頑張らんと!と思っています。1人で見る夢とMAiKAと2人でみる夢は違うんですよね。

TDM:どちらの今後も活躍期待しています!今日はありがとうございました!

 

interview &edit by Yuri Aoyagi
photo by AKIKO
’19/10/18 UPDATE

 

 

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tokyodancemagazine

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