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ストリートダンスの偉人達 YUKO SUMIDA JACKSON(前編)

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マイケル・ジャクソンのツアーに、ただ一人の女性バックダンサーとして抜擢され、マイケルと踊った唯一の日本人として知られるダンサー、ユーコ・スミダ・ジャクソン。
単身L.A.に渡り、Newsweek誌「世界が尊敬する日本人100」に選ばれるほどの成功を収めたにもかかわらず、誰もがうらやむマイケルとのシーンを「一番見たくない映像」と笑って語る彼女の物腰は柔らかく、一流を知る人の余裕と強さを感じる。そんな彼女が歩んできた人生の軌跡をたどりながら、当時のシーンや裏話、ダンスへの想いなどを聞き、貴重な記録として前編・後編でお届けする。
全てのダンサー必読です!


 

  • YUKO SUMIDA JACKSON

単身L.A.に渡り、マイケル・ジャクソンやベビー・フェイスのワールドツアーに参加。
世界を舞台に成功を収めた日本人ダンサー。
産後復帰後、ニューヨーク大学で特別ダンス講師を務め、2004年帰国。
現在「劇団四季」やワークショップでアウェークニング指導の他、スポーツカジュアルブランド『Yuko Sumida Jackson』を展開中。
2007年、Newsweek誌にて”世界で尊敬される日本人100人”の一人に選ばれる。
主な著作に、「アウェークニングエクササイズ」(DVD)、
「ヨガを超えた『アウェークニング』なら憧れボディが手に入る!」(ムック本)、
「ヨガを超えた『アウェークニング』なら無敵のボディが手に入る!」(ムック本)、
「アウェークニング」(ムック本)がある。

 


■「踊る」=「人が楽しむ」という楽しいダンスが原点

 

TDM:ダンスを始めたきっかけを教えてください。

YUKO物心ついたときにはもう家族の前で踊ってたんです。私の母が地元の熊本で美容室を経営していたので、住込みのお姉さんたちから「ユーコ踊って!」と言われて、父や年の離れた姉のかける曲や、有線で流れる洋楽のヒット曲に合わせて踊っていました。それが幼稚園くらいのとき。「踊る」=「人が楽しむ」という、楽しいダンスが最初の原点ですね。

11歳のときに母が宝塚に連れて行ってくれたんです。それを観たときに、ステージ上の照明や衣装や舞台装置がきらびやかで、ショーの内容は覚えていないのですが(笑)、とにかくダイヤモンドみたいにキラキラしたステージで踊ったりしていることが新鮮で「こんなのやりたい!」と言ったんです。そしたら母が「じゃあダンスをやらなきゃね。」と言って、九州バレエ学校という、当時では珍しくファンクなどの要素を入れている先生がいらっしゃるモダンバレエ学校に通うようになったんです。
土日に夜9時頃までレッスンして、片道徒歩約1時間の距離を、その日教えてもらった新しい踊りを練習しながら1人で歩いて帰るのがすっごく楽しかったのを覚えてますね。

TDM:そこからのめり込んでいったんですか?

YUKOそれが、中三の頃に母が入院したり、バレエ学校でも派閥みたいなものが出てきたりして、モチベーションが下がってしまって一回辞めてるんですよ。
バレエは自分を表現するツールとして100%ではないと思っていたし、コレも違うアレも違うとなって、表現として自分にバシッとハマるダンスはなんだろう…と考えてた時期です。
部活などもやってなかったので、ダンスとの接点といえばこっそりディスコに踊りに行っていたくらい。でも、お酒を飲んだり遊びに行ってたんじゃなくて、音楽が好きで、純粋に踊りに行ってたんです。そんな生活をしていたとき、当時病気で余命幾ばくもなかった母から一言「あなたはダンス辞めちゃだめだよ。好きなんだから辞めちゃダメだよ。」と言われたんです。ダンスを本当は本気でやりたいのに辞めちゃった私を見抜いていたんでしょうね。

TDM:本格的に再開したきっかけはなんだったんですか?

YUKO18歳のとき、山本寛斎さん(※1)が一般公募で選んだモデルを使って後楽園でファッションショーをやるという企画に応募して受かったことです。
最初に書類選考で受かって、東京へオーディション行って、そのオーディションで、“元気を表現する”ということを求められたとき、ステージの真ん中で足を上げたり変なことして(笑)、寛斎さんや演出家の方にすごく喜んでいただいて、何千人の応募から30人しか受からない枠に受かったんです。
そのファッションショーを終えた後、ちょうどテレビで観たブロードウェイを目指す若者のドキュメンタリーで、アメリカンダンスシアターというダンスカンパニーの先生が六本木のスタジオで教えているという情報を知ったんです。
実は、オーディションのとき、寛斎さんから「死ぬときに何をしていたいですか?」と聞かれて「踊っていたいです」と答えていました。ダンスを一からやり直したいという思いで高校を卒業して上京しました。

上京してからは、その番組で見た、スタジオ一番街(※2)というスタジオで、新高輪プリンスホテルの配膳のアルバイトをしながらレッスンを受ける日々を送っていました。
でも、さらなる刺激を求めて、父に「申し訳ないけど大学に行かなかった分の資金をお借りできませんか?」とお金を借り、自分でもお金を貯めて、翌年の4月、19歳のときに初めてスーツケース1個でN.Y.に行ったんです。

※1山本寛斎:日本人で初めてロンドンでファッションショーを開催したことでも知られるファッションデザイナー。
※2スタジオ一番街:当時の名だたる外国人ダンサーもレッスンを持っていた日本初のオープンダンススタジオ。現在は新宿御苑前に移転。

 

■“踊りで世界を回りたい”。夢だけでN.Y.へ

 

TDM:当時はどういう気持ちでN.Y.へ行かれたんですか?

YUKO今はダンサーの仕事は、ショーダンサーやツアーダンサーなどたくさんあるじゃないですか。でも、当時の日本は“ダンスで食べていく”という意味のプロダンサーというのはスクールメイツ(※3)がメインだったので、モデルケースがなかったんですよね。
作られた形でやるバックダンサーというのも違ったし、ブロードウェイを目指すというのも違った。でも、“踊りで世界を回りたい”という思いがあったので、世界で通用するような表現者にならなくてはいけないと思っていたし、世界中どこに行っても、自分が踊ることでそこにいる人たちがハッピーになったり、「すごい!」と言ってくれることが私の中の表現者としての評価だと思ったので、「そのためには、そこに向けて学んだりレッスンしなくてはいけない!」という想いでしたね。あとは、日本を出たかったもう1つの理由として、当時のバブル時代のクレイジーさというか、外国人モデルなどが、ダンサーじゃないのにダンスの仕事をしているのがおかしいと思って「日本にはもっと踊れる素敵なダンサーがいますよ!」って言いたいけど、私にはそれを言える力がないし、他のダンサーと手を組んで「日本人もすごいぞ!」と言えるキャラクターでもなかったので、日本を出て、自分が何らかの力をつけることがベストだと思ったんです。

※3スクールメイツ:主に歌手の後ろでポンポンを持ってチアガール風なダンスを踊っていた芸能グループ。

TDM:N.Y.ではどんな生活だったのですか?

YUKO当時は、スタジオで出会ったメンバーが何人かN.Y.にいたので、スタジオに通うのにちょうどいい場所に住んでいた友達の家に泊めさせてもらって、床に新聞を引いて、バッグを枕にして寝てましたが、全然苦にならなかった。ただ、当時は英語が話せず、デリでコーラっていったのにコーヒーが出てくるレベルだったので、言葉が通じないと食べたいものすら出てこないことに気づいたんです。
N.Y.では、「私は私でいいんだ」という心地よさは感じましたが、そこで生活していくための言語がない。住んでいてかなり上達はしましたけど、やはり今よりもっと上に行くには最初から言語を学ばなきゃと思い、4カ月で一旦引き上げて日本に帰って、英語の勉強とダンスの練習の強化に集中しました。

TDM:帰国してからはどんな生活をしていましたか?

YUKO本当にありがたいことに、帰国してからはダンスのお仕事がいっぱいあって、一応今で言うプロダンサーとして生活はできていたんですけど、20~21歳のときに1年間だけ劇団四季に入ったんです。ミュージカルをやりたいわけではなかったけど、学ばせてもらうという思いで入団し、2つ舞台に出させてもらいました。そのときの経験はすごく力になりましたね。
それから、浅利慶太先生(※4)に直接 自分がN.Yで再度勉強しに行く決断をしたことをお伝えしたら、先生なりの次のビジョンがあったにもかかわらず、すごく応援してくださって、温かく送り出してくださいました。実際のNYでは「仕事するならL.A.だよ。」と言われて、ハリウッドは映画もあるし、ミュージックビデオ、テレビ、ファッションショー、コンベンションなど、ダンサーの出る場所がいっぱいあるんですよ。だから、当時はN.Y.からL.A.に行くダンサーも多かったので、私も行き先をL.A.にしました。

※4浅利慶太:劇団四季創設者の一人でもある日本を代表する演出家。

TDM:L.A.ではどんな生活だったのですか?

YUKO行ってすぐエージェントが決まって、ありがたいことに仕事がいっぱい決まりだして、レッスンを受ける時間は殆どなく仕事は順調でした。

その時代センセーショナルな映画だった「PARIS IS BURNING」のプレミアイベントでWILLI NINJA (※5)ファミリーの中に唯一女性でイベントに出演した時、当時から一線で活躍していたファッションデザイナーのティエリー・ミュグレー(※6)が、私のことをドラッグクイーンだと思ったらしく(笑)、気に入られて、「違う」と伝えたんですけど、それでも「僕が一番好きなダンサーだ。ぜひファッションショーに出てくれ。」と誘ってくれたので、N.Y.とL.A.、パリコレと回りました。そのときはジェームス・ブラウンやナオミ・キャンベルなど、すごい人たちも出ている中で、1人のモデルとして出演したんです。
その頃はアワードショーもいっぱいやりましたね。オーディションでは、「どこから来たかわからないアジア人が仕事を持っていく」と思われて“オーディション荒らし”なんて呼ばれたこともあります(笑)。

L.A.に行ってそんな慌ただしかった日々の数ヶ月後には、イタリアの人気番組にアメリカからのゲストダンサーとして半年間レギュラー出演するというお仕事をもらって、半年もいないでイタリアローマに半年間住みました。

※5WILLI NINJA:アフリカ系アメリカ人ダンサー兼振付師。マドンナの『ヴォーグ』を振付したヴォーギングのゴッドファーザー。

※6ティエリー・ミュグレー:80年代のトレンドを牽引した世界的デザイナー兼カメラマン。

 

LA Live 出演後の1枚

 

TDM:L.A.での生活は順風満帆だったんですね。

YUKOいや、実はそうでもないんです。私は膝が弱くて、日本にいるとき十数回、膝の脱臼をしてるんです。日本での最後の舞台は、松本幸四郎さんの「世阿弥」という舞台だったのですが、そこでも脱臼骨折をして途中降板してしまったので、自分の動物的な身体の弱さを痛感しながらの渡米だったんです。だから、L.A.ではとことん自分の身体と向き合って、身体作りに必死でした。今でこそ日本のダンサーたちも身体作りに目覚めていますが、当時からアメリカのダンサーたちはダンスのレッスンと同じくらい、身体作りを大事にしていて、特にL.A.のダンサーは、エステティックな部分でどう見えるかも重要となりそれが仕事に繋がってくるので当然ですよね。そういう環境で仕事をしていると、自分の弱い部分をどう高めていくかとか、ジムなどで見た目の筋肉をつけても、動いたときにどうかというのは違う話なので、「動けるため+見え方」という意識もL.A.で培われましたね。そのおかげで、L.A.に行ってからは一回も脱臼してないんです。


 

■偉大さや信頼など、ギフト以上のものをくれたマイケル

 

TDM:そういった生活からマイケル・ジャクソンとのお仕事にどう繋がっていったのですか?

YUKOイタリアから帰って来て、アカデミー賞への出演が決まって、ある有名な女性振付師にしごかれたんです。共演する周りのダンサーたちから心配されるくらいダメ出しされたり、前日のリハーサルで、アカデミー賞に参加するそうそうたるメンツが見てる前で「クビだ!」とののしられたり…。以前から、他の振付師たちも私だけを怒ることがあったりして、評価をしれくれる振付師やプロデューサーもいたから、自信をなくしていたわけでもないんですけど、なぜそうなるのかわからなくて、もう自分の中でギブアップを感じていたとき、ちょうど、マイケルがダンサーを1人募集するらしいという噂が出たんです。そこで、私の中に希望が芽生えました。「マイケルが求めている女性1人の枠。これは私しかいない!」と思いましたね。

それは、決して自分が一番すごいダンサーだと思っていたわけではなく、私がどうしても浮いてしまうところ、振付師たちが「違う」という私の表現を、マイケルだったら、良しとしてくれるんじゃないかと感じたんです。当時はそんなにマイケルに対して知識があったわけではないのに、なぜかそう思いました。

でも、当初マイケル側が、すでに選んだ人の中で選ぶクローズドオーディションということで、その中に私も入っていたのに、それは不公平だという噂が広まり、一般公募のオープンオーディションに切り替わったので、私も一からオーディションを受けることになりました。
オーディション当日、遅れて行ったら、広いオーディション会場に世界中からダンサーが集まっていてすごい列ができていたんです。あまりに人が多くて、駐車場に続く非常口のところで踊らされ、早く前に行きたくて必死で振りを覚えて踊っていたら、どんどん前の人たちがカットされていって、気づいたら建物の中に入っていて、第4オーディションくらいまで進み、最終的に残ったのは7人くらいでした。それから、マイケル本人が選考するための映像を撮るために、カメラの前で1人ずつソロを踊って終了という感じでした。そして後日、エージェントから電話で「受かりました」と連絡がきたんです。

TDM:そのときの気持ちはいかがでしたか?

YUKOたぶん「やったー!」って感じだったと思うんですけど、あまり覚えてなくて…。でも、父にすぐ電話して「受かった」と一言、言ったみたいです。
すごいダンサーたちがオーディションを受けているのも見ていたんですけど、「私もその人にはなれないけど、その人も私にはなれないから、私の持っているものすべてを表現するしかない!」と思って、なぜか絶対に自分が受かるという自信があったんです。

TDM:そこからはどういう流れでしたか?

YUKOそれから約1カ月半、ダンサーだけのリハーサルがあり、その後本当のステージの大きさでのリハが1カ月あったんですけど、そこからマイケルが参加しました。今でも忘れないのは、その日はマイケルが来るというのでみんなテンションが上がっていて、ソワソワしていたら、リハーサル場所だった映画の撮影所の端からマイケルが来たんですよ。そしたら、ものすごく広い撮影所全体の空気が一瞬にして変わって、緊張していた私たちを包み込むような柔らかい空気に変わったんですよ。その時点で私はアゴが「ガーン!」とはずれるくらいの(笑)衝撃を受けましたね。
それから、私に近づいてきて「Nice to meet you」と手を差し出したんです。その差し出された手を見たら透明に透き通っていて、握手したら冷たくて、「人間ぽくない!」と感じました。
こんなに温かい優しいエネルギーを持った人っているのかなって思うくらい人間として素晴らしいオーラを感じたマイケルと、実際に触ったマイケルからは非人間を感じたという、1人の人間から両極端を感じたんです。すごく不思議でした。いろいろなビッグアーティストとお仕事をしてきましたが、あんなオーラの人はいませんでしたね。

TDM:さすがマイケルですね。でも、参加されたデンジャラス・ツアーでは、2人だけで踊るシーンがありましたよね。そういうすごいオーラの人と自分が対等になって踊るって、どんな感覚でしたか?

YUKO「もうよくわかんない!」って感じ(笑)。何を求められているかもわからないし、どうしたらいいのかもわからない。あの「The Way You Make Me Feel」での2人のシーンが決まったのはリハーサルのときだったんですが、アクティングで歩いてちょっと踊るみたいなビデオを見せられて「こんな感じでね」とタイミングだけ教えられただけだったんです。決められた振りを踊るのではなくて「ま、自分の好きなようにやってね」としか言われないから逆に困ってしまって…。しかもマイケルは、ノッてるときはテンションが上がるし、毎回リアクションやタイミングも変わるから超難しかった。
それに、実は昔はこの役を女性シンガーがやっていたらしいんですが、ある女性シンガーが近づいてキスをしようとしたらしく、アクションをやりすぎてクビになったと聞いたんです。そんなこと聞いたら、好きにやってと言われても、やりすぎてもダメなわけだし、ましてや、日本で生きてきて、特に九州だから「女の人が男の人をあやす」という感覚は持ってないし、私の美学としても違ったし(笑)、当時はすごく真面目に捉えちゃって本当に難しかったですね。だから、あのナンバーは私にとっては全然できてないんです。やり直せるならやり直したい(笑)。今でもあのシーンの映像見るのは嫌です(笑)。

「The Way You Make Me Feel」でのワンシーン

 

TDM:すごく有名な映像ですけどね(笑)。そのほか、ツアーで印象に残っていることはありますか?

YUKO本番中のステージで、たしか「Will You Be There」という曲でマイケルの近くで踊っていたとき、、ステージ上も客席も、人の素晴らしいものしかない空間だったからか、お客さんの振っているペンライトが美しくて、魂にしか見えなくなって、そのときマイケルと私の間の空気が揺れてバイブレーションで繋がったのを感じたことがあります。何と言うか、目には見えない筒状のもので繋がった感覚。目の前にはお客さんがいっぱいいるのに、それはすごく自然で、そういうものを感じて踊る素晴らしさというか、次元が違うところにいるという感覚は、最初で最後、あのときだけでしたね。

それともう1つ、先程お話した2人のシーンのリハーサルのときに「ここは、あなたのモーメントなのだからお客さんの目とハートをユーコがキャッチするんだよ。」とマイケルが言ってくれました。「マイケルの横で私が観客の目をキャッチするなんてどうやればできるの!?」という感じでしたが、マイケルがそれだけの信頼をくれて、ステージを任せてくれたということが、なんて素晴らしいアーティストなんだろう!と思いました。だって、ダンサーが目を引くようなことをすると嫌がるアーティストもいるんですよ。でも、マイケルはそうではなかった。本当にマイケルからは、偉大さや信頼など、ギフト以上のものをもらいましたね。

 

Dangerous Tour MTV インタビュー出演時の1枚

 

※後編に続く!(後編は12月下旬公開予定です)

 

 

 

 

 

interview &edit by Yuri Aoyagi

photo by AKIKO

’18/12/17 UPDATE

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