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ストリートダンスの偉人達 CRAZY-A

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元祖B-BOYと呼ばれ、日本のHIP HOPシーンに多大な影響をもたらした、日本のストリートダンス創成期における最重要人物CRAZY-A。
1980年代から先見の明を持ち、フリースタイルバトルの礎となったイベント「B-BOY PARK」を主催するなど、常にムーヴメントを起こしてきたレジェンドが語る、当時のシーンや裏話、「B-BOY PARK」伝説、そして、HIP HOPとは…。
ストリートダンス、HIP HOPシーンに関わる全ての人必読です!

 


 

  • CRAZY-A

1983年より原宿の“ホコ天”でB-BOYとしてキャリアをスタートさせ、東京B-BOYSのリーダーや風見しんごのバックダンサーとして活動。日本で初めてのB-BOYと称される。

その後、アメリカの大御所ダンス・チームROCK STEADY CREWの日本支部として暖簾分けを受けたROCK STEADY CREW JAPANのリーダーに就任。
ZOOをはじめ、KICK THE CAN CREW、HEARTSDALES、YA-KYIMなど数々のメジャーアーティストのデビューへの橋渡し役を果たすなど、アンダーグラウンドだけでなくメジャーシーンにも影響力を持つ。
1997年よりジャパニーズHIP HOPの祭典「B-BOY PARK」を主催し実行委員長を務める。日本を代表するHIP HOPアーティストが一堂に会する、この日本最大のHIP HOPイベントは2017年に惜しまれつつ20年の歴史に幕を閉じたが、現在も、「TOKYO B-BOY’S 35th ANNIVERSARY」を主催するなど、HIP HOPアーティストとして、若手育成、イベントオーガナイザー、プロデューサーなど多岐にわたって活動している。

 


「フラッシュダンス」がきっかけで不良からB-BOYへ

TDM:そもそもダンスを始めたきっかけはなんだったんですか?

CRAZY-Aは「フラッシュダンス」って映画なんだよね。俺は20歳のときに1回結婚して、離婚してるんだけど、離婚した後に友達が「女紹介してやるから映画観に行こう!」って誘ってくれて、男女4人で行った映画が「フラッシュダンス」だったんだよ。10代のときは不良だったし、それまでダンスには全く興味なかったんだけど、映画のワンシーンでストリートでブレイクダンスを踊ってるのを見て、これなんだろう!?って、衝撃を受けた。ダンスって女や子供がやるイメージだったから「ダンスみたいだけど、やけに男っぽいな」と思ってね。そこで目覚めちゃって、2回観に行って(笑)後からそれはロック・ステディー・クルー※1が踊ってたと知ったよ。最初ロボットダンスが出てきて、次にムーンウォークが出てくるんだけど、ムーンウォークはなんか下に敷いてあるのが見えたから、それに仕掛けがあるんだと思ってずっと疑ってたんだけど、実際はただの段ボールだったんだよね(笑)。

※1 ROCK STEADY CREW(ロック・ステディー・クルー):1977年にNYブロンクスで最初に結成された世界最大のHIP HOPチーム。

TDM:「フラッシュダンス」がきっかけとは意外でした。

CRAZY-A:それまでずっと不良やってて(笑)、20歳になって、不良で上を目指してもいいことないな、とも考えてたし、モヤモヤしてたんだよね。身体動かすのは元々好きだったし。
でも、当時はブレイクダンスなんか誰も知らないから、自分なりに調べようと思って、1人でディスコに行って、それらしきダンスを踊ってる人たちに自分から「どこで踊ってんの?」なんて声をかけたりしてね。そこから原宿の歩行者天国で踊ってるという噂を聞いて、ホコ天※2に行ったんだけど、その日は竹の子族しかいなくて、竹の子族の向こうにでっかいラジカセがポツンと置いてあって、そこからブラックミュージックっぽいのが流れてて、それっぽいやつらが集まってきたから声をかけたら、みんなホコ天は初めてだって言うんで、「ここじゃないのかな…」って思ったんだけど、「来週もやろう」って話になって、次の週にまた集まって踊ったんだよね。
当時は映画で見たくらいの情報しかなかったから、見よう見真似で踊ってたんだけど、3週目くらいに、いつもラジカセ持ってきてくれてた人が来なくて、「じゃあ自分でラジカセ持っていこう!」と、俺が持っていき始めたのが、‟毎週日曜日はホコ天で踊る“というのの始まりになるかな。そこでやってることを定着させちゃえば、自分から探しに行かなくてもそういうやつらが集まってくると思ったのもあるね。

※2 ホコ天:竹の子族やストリートパフォーマーなど、若者文化の発信地だった原宿の歩行者天国。

TDM:そこからどういう活動をされたんですか?

CRAZY-A:俺と弟のNAOYA※3と、地元の南千住にたまたま踊れるやつがいて、その3人が主体となって、原宿で踊ってた仲間と「東京B-BOYS」っていうチームを作って活動して、20代前半はブレイキンにドハマりしてたね。東京B-BOYSという名前は、原宿で踊り始めたときに、外国人の女の人に「あなたたちみたいなのをB-BOYっていうのよ」って教えてもらった。自分でもグラフィティとか書いてる白人で、その人から「あなたたちはトウキョウビーボーイズね」って言われて、それをそのままチーム名にしたんだよね。

※3 NAOYA:ダンス&ボーカルユニットZOOの元メンバー。実弟。

TDM:そうだったんですか!その頃の活動はどんな感じだったんですか?

CRAZY-A:東京B-BOYSは、メンバーに2人公務員がいて、ショータイムが入ってもその日に休めないみたいな状況が続いて悩んでた。そのとき、風見しんごさんのバックダンサーのパワームーブ担当の人が「涙のtake a chance」がヒットした後、辞めちゃうことになったらしく、入ってくれないかっていう話が来て入った。それが22歳、踊り初めて2年弱の頃かな。それで、「欽ちゃんの週刊欽曜日」っていう番組に欽ちゃんファミリーとして毎週レギュラーで出るようになったんだよね。

TDM:当時、風見しんごさんがブレイクダンスを取り入れたことは画期的でしたよね。

CRAZY-A:そう。だから4人のバックダンサーも人気がでちゃって、コンサートも半分はバックダンサーのファンみたいな。それで、デビューしないかって話もきて、契約金がウン千万、超A級新人なんて呼ばれたりしてね。有名な飲料水のCMの話とかイイ話が色々あったんだけど、芸能界のいろんな圧力もあったりして(笑)結局なくなっちゃった。
バックダンサーは1年弱くらいしてたんだけど、プロになりたかったわけじゃなくて、全国ツアーに行けば全国の奴とバトルができると思ってやってた。地方に行くと‟風見しんごのバックダンサーとバトルしたい“ってやつらが、その場所場所で待ち構えてたよ。

1986年 breakr時代の貴重な1枚

 

TDM:当時の地方にもB-BOYはいたんですね。その頃のストリートダンスシーンはどんな感じだったんですか?

CRAZY-A:地方にもチラホラいたのは、しんごちゃんの影響もあったんじゃないかな。その頃のストリートダンスシーンは、九州のBE BOP CREWが有名だったね。「日本では、一番上手いやつらがいるのは九州」と言われてた時代だった。SAM※4とかOHJI※5とかがいた東京BE BOP CREWっていうのがあって、俺たちはその辺と同時期だったからバチバチやってたよ(笑)。
彼らは元々ディスコとかでダンスを踊ってるダンサーで、‟ブレイキンもやってる“という感じだったんだけど、俺たちは元々不良で、ブレイキンから始めた連中だったから、ちょっとルーツが違うんだよね。だから俺たちは‟ダンサー“ではないの。‟B-BOY”なの。今でもそうだけど、ダンサーになりたいわけじゃないんだよ。
最初はダンスから入ったけど、「このダンスを踊るにはどんな音楽で踊るんだろう」とかを調べてくうちに「WILD STYLE」という映画に出会って、その映画で、DJがいて、スクラッチして、ラップがあって、というHIP HOPの全容が見えたんだよね。そのときに初めてHIP HOPがどういうものなのかわかって、ダンスをメインにしながらも、DJとか他のHIP HOPも日常的にやってたんだよね。

※4 SAM:現TRFのリーダー。トウキョウダンスマガジンでのインタビュー記事はこちら。
※5 OHJI:ストリートダンスのパイオニア的ダンスチームJUNGLEのリーダー

 

■HIP HOPは常識から外れたところにあるもの

CRAZY-A:25歳になったときに身の振り方を考えて、仕事しなきゃダメかなと思って1回バックダンサーを辞めて、自分の家が建築関係だから、その仕事をやりながら土曜日になると六本木とかに踊りに行くみたいな生活をしてた。その頃、当時ニューダンスと呼ばれていたニュージャックスイングが入ってきて、ダンス番組「DADA L.M.D※6」の放送が始まって、仲間たちが誘われてレギュラーとして出演してたんだけど、俺は誘われなかったから(笑)番組内でやってたコンテストに出て、そのコンテストで優勝してレギュラーになったんだよね。
でも実は、そのコンテストの優勝賞品が海外旅行で、当時の彼女が海外行きたいっていうから「じゃ、獲ってきてやる」って言っちゃったんで出たんだけどね。それで、強引にメンバーになった(笑)。1年くらいやった後、DADAのメンバーでデビューするって話になったんだけど、俺は1回アイドルっぽいことは経験してたからさもういいやと思って、弟のNAOYAもメンバーに居たんでね、俺はまたHIP HOPシーンに戻ったの。なんかさ、ブレイキンは、バトルがメインのオンリーワンでなんぼのスタイルだから、ニュージャックスイングみたいに皆で一緒に踊るダンスじゃないんだよね。

※6 DADA L.M.D:1989~1990年にテレビ朝日系列で放送された日本中にダンスラバーを派生させた伝説的な深夜番組。のちにClub DADA として1991年〜1992年放送。

TDM:ニュージャックスイングの流行りに違和感を覚えたってことですか?

CRAZY-A:うん。皆ニュージャックスイングのことをHIP HOPって言ってるけど、HIP HOPではなかったね。今は取り入れられてHIP HOPになったのかもしれないけど、あれは‟HIP HOPの音楽で踊るパーティーダンス“って感じなのかな。HIP HOPって一人ひとり捉え方が違うと思うんだけど、本来「カッコいい」ってことなんだよ。元々MCがただ語呂合わせで言っただけの言葉で、当時、DJ・ラップ・ブレイクダンス・グラフィティの4大要素をHIP HOPって名前にしようとバンバータ※7が最終的に決めたんだけどね、「ヒップ」がカッコいいという意味で、「ホップ」はさらにみたいな意味だから、「カッコいいものをもっとかっこよくする」ってことなんだよね。
HIP HOPって基本やっちゃいけないことをやって生まれたもので、常識から外れたところにあるものなんだよ。例えば、ブレイキンは、床で踊るなんてことはそれまでになかったことだし、DJにしても、それまで触ること自体NGだったレコードを、反対に回すなんてことはありえないことだしね。グラフィティにしても、自分の名前の文字を崩してカッコよく描く方法を競ったり、ラップも、メロディの部分じゃなくてリズムの部分で韻を踏むなんてそれまでになかったこと。そういうものがHIP HOPなんだよね。

※7 Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ):N.Yブロンクス出身のミュージシャン、DJ。ブラック・カルチャーの重要人物でHIP HOPの名付け親。

 

1993年ニュージャック全盛期の頃

 

TDM:なるほど。既存のものに逆らって新しいものを作るということですね。

CRAZY-A:HIP HOPが生まれたところって、N.Yのサウスブロンクスというところで、警察も行けないような荒れたところなの。そこの住人たちは、マンハッタンに行けない差別されて抑圧されてた人たちなので、絶望の中から光を見出す手段として生まれたのがHIP HOPで、落書きし放題のそういう場所だからこそ生まれたものなんだよね。だから俺は、普段充実してる人にはHIP HOPは必要ないと思ってる。弱いものや困ってる人たちのためにあるものだし、困ってる人たちから見ると希望なんだよね。だから、末端にいないとHIP HOPの有り難さに気づかないんじゃないかなと思うよ。

 

■合法で公園を借りてお金にしていこう!と始めた「B-BOY PARK」

TDM:B-BOY PARKを始めたのはいくつのときですか?

CRAZY-A:35歳のときだね。2番目の女房に娘が生まれたとき、その子が生まれたときに「どうやって俺はこの子を育てていこうかな」って考えて、俺のできることはHIP HOPか、家の仕事かどっちかだから、どうせだったらストリートで本気でやったらどうなるかな?道端でお金を稼げないかな?と思って、路上で踊って投げ銭してもらう延長で、合法で公園を借りてお金にしていこう!という安易な発想から始めたんだよね。

TDM:当時は企業とB-BOYが一緒にやるなんて斬新でしたよね。

CRAZY-A:そうだね。毎年8月にやってたから、2月頃になるとスポンサーを集め始めて…ということを20年やってたね。いろいろな企業が協力的で、渋谷店のデニーズなんかもオリジナルで“B-BOY PARKランチ”とか作ってくれたりしてね。

TDM:なぜ20年で終わりにしたんですか?

CRAZY-A:俺たちの時代のB-BOYは、当時のストリートルールでは20歳で引退なの。「いつまでもそんなことしててどうすんの」ってお袋に怒られたりするからね。暴走族と一緒(笑)。だから、自分の子供と一緒に育ててきたB-BOY PARKも20歳で卒業かな。

TDM:そんな理由があったんですね。B-BOY PARKをやっていた 20年はどんな20年でしたか?

CRAZY-A:いろいろ勉強になったね。企業との付き合い方とか、お金のことも。大きなお金を扱うようになって、会社まで作って社長までして、一通りやったけども、結局俺は金勘定はできないんだよね。基本的に俺たちはアンダーグラウンドだから、落書きしたり、駅で踊ったり、健全ではない。そのクリーンではない俺たちが企業と付き合うと意外とめんどくさいんだよ。
俺たちはHIP HOPをやるためにやってるけど、間に入る人たちはお金のために動くから利益優先になってくるし、それがすごく俺の中で葛藤があってね。いろいろ考えるようになって、「じゃあお金って誰が作ってるわけ?」というところまで遡って考えて、結局、お金を扱うと、お金のシステムの中に入らければいけなくなるんだなって思うようになった。それって結局お金の奴隷なんだってことに気づいて、なるべくお金の世界に入らないようにしたいと思ったんだけど、それは現実には難しいから、「HIP HOPをお金にするのはやめよう」という結論を出したんだよ。
後からお金がついてくるのは構わないけど、HIP HOPをお金にしようと思うと考え方が変わっていっちゃうから俺は、10年くらい前から家の仕事で憶えた仕事をして、基本的にはやりたいHIP HOPだけをやってる。そうすれば誰にも媚びないでいいし、お金のために自分の意見を変える必要もないからね。

TDM:B-BOY PARKが20歳ということは、きっかけとなった娘さんも20 歳になられたということですよね?子育ての姿が想像つきませんが(笑)。

CRAZY-A:俺、育てた娘2人いるんだけど、娘には怒ったことないんだ。困ったときだけ手を貸して、自由に好きにやっていいよって感じ。「とにかく自分の好きなことを優先的にやれ!嫌なことは後回しでいいから」って言ってきた。「勉強しろ」とか1回も言ったことないけど、下の子なんか学年トップだったりしたの。たぶん子供はそのほうがいいと思うよ。俺はお袋から口うるさく言われて育って反抗的になったから反面教師かもね。なんで娘との関係はすごく良好だよ。反抗される憶えはありません(笑)。

 

■ホコ天時代に戻った「TOKYO B-BOY’S 35th ANNIVERSARY」

TDM:現在はどんな活動をされてるんですか?

CRAZY-A:若い子たちの子育てもそうだし、シーンが活性化するような活動をしてるかな。俺たちの時代にはシーンなんてものがなかったから自分たちで作るしかなかった。その気持ちが今でも続いてるんだよね。
その一環として、今年の8月にも「TOKYO B-BOY’S 35th ANNIVERSARY」というイベントを代々木公園でやったんだけど、今回は個人スポンサーを集めてやったんだよ。昔ホコ天に来てたやつとか、今個人の会社で社長になってるやつとかに「3万だせよ」みたいな(笑)。「俺がラジカセ持って行くから電池代カンパして」みたいなノリでね。それで結構集まったから、来年は100万集めるのが目標かな。さっきも言ったように、B-BOY PARKをずっとやってきた経験から、企業スポンサーに頼らず、個人スポンサーにしたんだよね。
でも、その結果、イベント自体はすごく自然な感じで、B-BOY PARK前の純粋なホコ天時代に戻ったみたいだった。イベントの最後に、恒例のオールドスクールタイム、通称‟おじさんタイム“があるんだけど(笑)、80年代B-BOYがここぞとばかりに皆出てきて、そんな激しい技はできないけど、皆踊れるし、笑いが起こったり、温かい感じでいい雰囲気だったよ。

TDM:それはすごく楽しそうですね!他にもどんなコンテンツがあったんですか?

CRAZY-A:小学生以下のアンダー12バトルを作ったよ。B-BOY PARK時代から、海外とやりあうには子供のときからやらないと勝てないと思っていてね、とにかく年齢層を下げようとしてアンダー20バトルをやってたんだけど、それを見て憧れたもっと若い子たちが増えて、まんまと年齢層が下がっていったよ。だから、さらに年齢層を下げてアンダー12を作ったんだけど、アンダー20の部門でも、今年優勝したのはなんと12歳!アンダー12を作った意味なかった(笑)。今は小学生が強いね。元々ブレイキンって子供のダンスだからね。身体が大きくなってきちゃうと出来ないから、子供のほうが有利。そう考えると本来の姿に戻ってきたのかな。
他にも、B-GIRLバトルと、オーバー40部門も作ったんだけど、結構出たよ。昔ブレイキンやってて、一度辞めちゃったけど、40歳過ぎて子供も手かからなくなったからもう一回やりたいっていう人が結構いるんだよね。だから20歳で引退、40歳で再開みたいな流れができてる(笑)。

TDM:B-BOY PARK後も、イベントという形を続けている理由はなんですか?

CRAZY-A:2018年5月のブレイキンのユースオリンピックの予選を見たときに、今は日本強いからいいけど、今後、次の世代が出てこなかったらヤバイなと思ったんだよね。80年代終わりにニュージャックスイングが入ってきたときに、1回流行ったブレイクダンスが流行遅れ扱いされて「もう終わったよ、ブレイクダンスは」みたいな風潮があった。その時代がもう1回くると嫌だなと思って、続けていかなきゃというか、次の世代を育てなきゃと思ったんだよね。
あとは、オリンピック競技になったことで、スポーツ化していくから、大会に出るとかだけじゃなくて、「ブレイキンは元々ストリートのただの遊びなんだよ」という軽い感じも残していかなきゃと思って。
HIP HOPっていうのは自分が楽しむためにあるものだから‟楽しくできるHIP HOP“を残していきたいの。上手いやつはあっちこっちでチヤホヤされるわけだから、俺なんかが呼ばなくてもいいのよ。ただ、誰にも見てもらえない下手な連中とか、全ての末端の奴らも楽しめるものじゃないとさ。なにかを求めてるやつらが来る場所。俺も昔、なにかを求めて原宿にいったわけだし、次の俺たちみたいなのを育てなきゃという思いでやってるんだよね。

 

■その人が楽しめてるんであれば、それがHIP HOP!

TDM:最近はHIP HOPが習い事になったりと、それこそ健全化していますが、今のストリートシーンを見て感じることはありますか?

CRAZY-A:それは時代だからしょうがないよね。でもね、さっきも言ったけど、HIP HOPっていうのはジャンルじゃないんだよね。カッコいいものをHIP HOPと認めるの。こっちがね。
だから、どんなジャンルでもカッコいいなと思ったもの全てがHIP HOP。HIP HOPの音楽って、誰かの曲の歌の入ってないブレイクビーツの部分を使うでしょ。ブレイキンも、カンフーとかいろんなジャンルからとってきてるしね。「手っ取り早くて、簡単にできて、カッコいいもの」それがHIP HOP。それはダンスだけじゃなく、ロックでもジャズでもパンクでも一緒だよ。だから、極端な話、バレエのカッコいいところをアレンジしたりして、バレエを使ってHIP HOPすることもできるわけよ。

TDM:お話を聞いていて、最近のシーンにもっと「物申す!」的なムードがあるのかと思っていましたが、冷静に時代の流れを見てらっしゃる感じを受けました。

CRAZY-A:そうだね。だって全部受け入れるしかないじゃん。最初の頃はこだわりみたいなのがあったけど、結局HIP HOPに対して考え方も1人ひとり違うじゃない。こうじゃなきゃって決まりはないから、それをやっちゃうと枠にはめちゃうことになっちゃって、それじゃ元も子もない。俺は俺のHIP HOPがあるし、人それぞれでいいんだよ。それでその人が楽しめてるなら。それを違うよっていう必要もないし、もし本当に違ってたなら、いつか気づくだろうしね。その人が楽しめてるんであれば、それがHIP HOP!

TDM:最後に、今の若いダンサーたちにメッセージをお願いします!

CRAZY-A:若いときは好きなことを迷わず一生懸命やること!俺は、HIP HOPがそれまでにないカルチャーだったから、すごく迷いながらやってたのよ。「日本人の俺がやっていいのかな?」「そんな一生懸命やってもな…」とかね。あの時にもっと迷わずやってたら、さらに高いところにいけたかなと思うと、俺はもったいない時間を過ごしたと思う。だから、好きなことだったらとことんやったほうがいい。自分の子供にもそう教えてきたけど、好きなことを一生懸命やれば、結果はでなくても後悔することはないから。一生懸命やると自信にもなるしね。迷ってると時間がもったいないよ!

TDM:実体験からのメッセージ、皆に響くと思います。今日は貴重なお話をありがとうございました!

 

interview &edit by Yuri Aoyagi

photo by AKIKO

’18/10/5 UPDATE

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