01.interview, People

KEIGO(中島桂吾)

Off 32662

教育現場とダンスの距離が近くなった昨今、「教育×ダンス」の今はどうあるべきなのか。その答えと可能性に必死に取り組んでいるダンサーがいる。ダンサーとして活躍しながらも、教員免許を持ち、長く教育とダンスを繋いできたKEIGO。現在柔整鍼灸の専門学校の職員として、ダンスを学ぶ高校生の教育からダンサーのセカンドキャリアに至るまで、幅広い視点から「ダンス×治療家」の分野を広げるべく、さまざまなチャレンジしている彼に、自身の特異な経歴や、ダンス界に必要な教育など話を聞いた。


 

KEIGO(中島桂吾)

19歳でダンスを始め、大学卒業後はカナダへ語学留学。トロント最大のダンススタジオNDC(National Dance of Canada)にてレッスンを持ち、ダンスカンパニーVYBE(Versatile Young Bodies of Energy)に、唯一の日本人ダンサーとして所属し、PV、TV、ツアーバックダンサーとして活躍。帰国後、都内ダンススタジオ、スポーツクラブにてダンス講師や、氷川きよし、DJ OZMA、ナオト・インティライミなどアーティストのバックアップダンサーを務める傍ら、留学経験を活かして英語教諭となり、昌平高等学校、学校法人船橋学園東葉高等学校などで教員を務めた後、株式会社LDH JAPANを母体としたEXPG高等学院にて、運営や管理、カリキュラムの作成等運営に関わり、ダンスと教育を繋げる活動を行う。2024年より日本医学柔整鍼灸専門学校の事務局次長に就任し、柔整鍼灸の分野とダンスを繋げる活動に取り組んでいる。日本ダンス技能向上委員会理事。

Instagram:@keigo.vybedance

 

 

カナダ/トロントのカンパニー唯一の日本人ダンサーとして活躍

 

TDM:ダンスを始めたきっかけはなんですか?

KEIGO:最初にダンスに触れたのは、高2の文化祭で、ダンスが得意な友達がビデオから振り起こしして教えてくれてSMAPの曲を一緒に踊ったときです(笑)。僕は、中高と、テニスに打ち込んでいてインターハイにも出たのですが、大学でもテニスサークルには入ったものの、大学の途中から始めたダンスが楽しくなってきて、19歳で近所のダンススタジオに通うようになりました。そこで初めてロックダンスを見て、「これかっこいいな!」と思い、そこからのめり込んでいきました。その頃は週10レッスンぐらい受けていました。大学を卒業してカナダに2年3カ月のダンス留学をしました。

TDM:なぜカナダに行こうと思ったのでしょうか?

KEIGO:就職はせずにダンスがやりたかったのと、とりあえず海外に行きたかったんです。本当はN.YやL.Aに行きたかったけど、テロの翌年だったので、親からアメリカはやめてくれと言われ、僕の従兄弟も留学したことがあって、N.Yにも近い、カナダのトロントにしました。

 

 

TDM:カナダではどんな生活を送っていましたか?

KEIGO:ダンスを教えたり、カジノでパフォーマンスをしたり、 ショータイムに出たりなど、プロダンサーとして活動していました。1階がバーで、2階がダンススタジオを経営しているところに住み込みで働いていました。地下に部屋があって、そこで寝泊まりして、朝起きたらバーを掃除して、終わったらダンススタジオで練習という日々でした。

TDM:映画の「フラッシュダンス」みたいな生活ですね!その生活を送るきっかけは何だったのですか?

KEIGO:ダンススタジオで教えをしたくてオーナーに履歴書を持っていったら「まだ素性が分からないから、まず住み込みで掃除してからでどうだ?時給もあげるから」と提案してくれたんです。仕事ももらえて練習も自由にできるならラッキーと思って始めました。そのスタジオで教えていた、VYBE DANCE COMPANYというチャイニーズカナディアンが中心で主宰しているアジア人ダンスカンパニーの代表に、「一緒にやってみないか」と誘っていただいて、唯一の日本人ダンサーとして所属して、プロの活動がスタートしました。N.YやL.Aにもレッスンを受けに行って、 N.Yでは、自分の生徒と2人で3カ月間、ネズミが出るような古くて狭い部屋を借りて、ダンス練習用に鏡を買って1部屋に貼って、もう1部屋で寝るみたいな下積み生活もしていましたね。

TDM:カナダの生活は充実していたようですが、なぜ帰国したのですか?

KEIGO:ビザがとれなかったからです(笑)。N.YやL.Aに行っては、またカナダに戻って…みたいなことを繰り返していたので、不審に思われて(笑)、ワーキングホリデービザを申請しに1回日本に帰ってきたんですがビザが下りなかったんです。荷物も全部カナダに置いてきたままだったので、急いで飛行機のチケット取ってカナダに帰って、1つ決まっていた舞台だけ短期間でリハーサルをして、出演した翌日に荷物を全部まとめて帰ってきました。

TDM:それはバタバタですね!急に日本に帰ってきて、仕事はどうされたんですか?

KEIGO:仕事がないまま日本に帰れないなと思っていたので、日本のダンススタジオを片っ端から調べて、カナダから自分の映像と履歴書をメールで送りました。海外でやっていたという経歴に興味を持ってくれたBDCと横浜ダンス学院の2つだけレッスンが決まった状態で帰ってきました。その後、川崎のダンスエリアサージやSTUDIO ZEALも連絡をくれて、STUDIO ZEALは、最初は夏だけの限定企画レッスンとしてスタート。2人しか生徒は入っていなかったんですけど、他の先生の代講を「ここも、ここもやれます!」と、やりまくったら生徒さんが飛躍的に増えて、そのうち発表会にナンバーを出すようになって、結局、発表会の演出までさせていただきました。一時は、都内各所にあったZEALのレッスンだけで週12本もやっていました。

 

「教育って面白いな」と、教員免許を取得

 

TDM:教育に興味を持たれたきっかけは何ですか?

KEIGO:日本でダンサーだけで食べれるようになったタイミングで、西葛西にある東京スポーツ・レクリエーション専門学校という、トレーナーなどを養成する学校でダンスの授業を受け持つことになったのがきっかけです。そこの職員の方は遅刻や欠席をした生徒にはすぐ電話するような、教育に熱心な方でした。僕としては、ダンスだけ教えるつもりで入ったのに、その職員の方に、「マナーや礼儀、時間を守ることや、練習に来ないとどう周りに迷惑かかるなども全部生徒に伝えて欲しい」と言われて、卒論の指導なども頼まれたんです。最初は「なんでそこまでやらなきゃいけないんだ」と思っていましたが、1年間やりきって卒業公演の挨拶で舞台に出たときにすごく達成感があり感極まって泣いてしまったんです。自分でも変わったなと思ったし、ダンスのスキルを教えるだけじゃなくて、「人の人生に関わることはこんなに素晴らしいことなんだ」と感じて、「教育って面白いな」と思い、教員免許を取ろうと思いました。

そのときが29歳くらいだったのですが、当時は、30 歳になっても自分が踊っているイメージがなかったんですよ。英語が喋れるしダンスにも関われるものはなにかと考え、英語の教員免許を取ることにして、30歳で日大の通信教育部の3年生に編入という形で入り直して、2回目の大学生になりました。

TDM:ダンサー活動との両立は、どのようにやっていたのですか?

KEIGO:夜はレッスンをして午前中に大学に通いました。朝9時から17時までの授業を3日間受けてテストに合格したら単位取得ができる短期スクーリングというものをゴールデンウィークなどに受け続けて、2年間で教員免許取得に必要な単位を取りました。ダンスの生徒に数学の先生がいたので、その方の学校の校長先生にお願いして、教育実習も無理矢理やらせてもらいました。他の教育実習生は22歳くらいなのに 僕1人だけ32歳で、ダンスのレッスンを通して人前で話すことにも慣れていたので、堂々と喋っていたら「あいつはなんなんだ!? 校長の親戚か!?」と噂がたっていたみたいです(笑)。

 

 

TDM:教員免許を取得してからはどんな生活になったのでしょう?

KEIGO:ダンサーしかしていなかったので、経歴もない32歳を正職員で雇ってくれるところはなかなかなく採用試験を4つ受けて全部ダメでした。その中で埼玉にある昌平高校の先生がエンタメに理解があり、僕の経歴を面白いと思ってくれて、非常勤講師として2年間契約で採用してくれて、ダンサーと教員という生活が始まりました。

TDM:「学校の先生」と「ダンサー」と、二足のわらじですね!

KEIGO:そうです。そのときはプライベートで双子の子供が産まれたばかりで、育児に追われる中、朝8時からの授業に間に合うように昌平高校のある埼玉の北葛飾郡まで通うのは本当に大変でした。最初の3カ月は寝た記憶がないです(笑)。昌平高校で2年間、その後は千葉にある東葉高校に3年間勤めて、合計で約5年間は 朝から授業をして家に帰って育児して、夕方以降は自分のレッスンをして23時頃に帰宅、という生活を送っていました。東葉高校は最初は非常勤でしたが、英語の授業内容が認められたことと、ダンス部も見て欲しいということで、途中から常勤になりました。

TDM:5年間もその生活を続けられたモチベーションはなんだったのでしょうか?

KEIGO:ずっと英語の先生だけやっていこうとは思ってなかったんですが、せっかく教員になれたので教員は続けたいというのと、ダンスと教育をより繋げたいということで教員免許をとったので、ダンスも教員も辞めちゃったら意味がないので、「ダンスと教育を繋げられるためにまだ修行中だ!」と思って、やれるだけやろうという感じでした。

 

EXPG高等学院では全てのカリキュラムを作成

 

TDM:その生活に終わりを告げたきっかけはなんだったのでしょうか?

KEIGO:僕が高校で英語を教えていることを知っていた方を介して、日本ダンス大会を主催していた「ダンス技能向上委員会」から、コンテスト出場校の作品に使われる曲の英語詞を翻訳して欲しいと頼まれたのがきっかけです。いわゆるFワードと呼ばれる下品な言葉を使っている曲をチェックして高校に指導をしていたのですが、3~4年ぐらい経ったときに、ダンスを学びながらN校と提携して高校卒業資格が取得できるEXPG高等学院が開院されるにあたり、教育に精通していてダンスも分かる人を探しているとのことで、「日本ダンス技能向上委員会」の理事の方を通じて株式会社expgから声をかけていただいたんです。教育とダンスを繋げたかった僕にはとても魅力的な仕事で「やっと来たな!」と思いました。

その時は英語科の主任で、3年生の担任もしていた上に、ダンス部顧問として全国大会2年連続優勝をさせていて、3連覇がかかっていた年で辞めれない状況だったのですが、ちょうどコロナの影響もあり、どうしても実家に帰らなきゃいけなかったので、一度地元に戻るために東葉高校を辞めて、いろいろ整理してEXPG高等学院で働く準備をしました。「うちはダンサーを育てたいわけではない。ちゃんと教育もしながら、ダンスと一緒に人間性も育てながらやっていきたい」と聞いて、それは最もやりたいことだったので、嬉しかったですね。

TDM:実際にはどんなことをしたのでしょうか?

KEIGO:システム作りから何から全てやりました。単位を認定する評価制度や、学校としての規約や規則、生徒指導のマニュアル、教務のマニュアル、進路指導のマニュアルなどの他に、学年ごとのカリキュラム作りなどを学長であるEXILEのTETSUYAさんと相談しながら作りました。ダンスのカリキュラムについては、学院は、東京、名古屋、大阪、福岡にあるので、生前のSEIJIさんを介して、それぞれの地域の大御所のダンサーたちに協力を仰いで作りました。

 

 

TDM:ダンス以外に教育面で工夫したことはありますか?

KEIGO:進路指導の時間を設けました。1年生は高校に慣れる期間ですが、2年生は進路を考える期間でめちゃめちゃ大事なので、2学期15コマを使って職業について掘り下げる授業を作りました。進路の意識を身につけて欲しかったので、ダンスに関わる仕事を、〝踊る仕事〟と〝支える仕事〟に分けて、〝踊る仕事〟は、インストラクター、アーティスト、バックダンサーなどの職業の人、〝支える仕事〟は、照明さん、衣装さん、制作さん、など、LDHで働く人たちなどを呼んで実際に話をしてもらいました。生徒たちからの「どうしてその職業に就いたんですか」「どれぐらい稼げるんですか」などの質問に答えてもらい、最終的に自分たちでレポート発表するという授業で頭の中を図式化させました。ダンサーやアーティストになりたいと学院に入ってきた子たちにも、ちゃんとそういうことを考えさせる授業、進路への動機付けというか、踊る仕事だけがすべてじゃないことを分かってもらいたかったんですよね。

TDM:厳しい世界の中で、とても大切な教育ですね。

KEIGO:その中でエンタメに結び付くのはほんの一握りですからね。残念ながらそこから漏れた子たちが置き去りなってはいけない。教育とダンスが結びついて、ダンスは教育に使えると認識されてきたのに、ダンスは続けたいけど食べていけなくて、どうしていいか分からない子たちが出てしまうなら、何のための教育か分からないですからね。これだけダンスが認知されて、ダンスを通じた職業も出てきたけど、プロダンサーになるには、高校や専門学校を卒業してもバイトしながらダンスを続けて、仕事を持っている先生のレッスンを習い続けて、 目をつけてもらって…という流れしかなく、僕がダンサーになった20年前から状況は変わっていないんです。動画を投稿し続けてSNSでバズる、というなり方は出てきましたけど、ダンサーという職業がちゃんと定着したが故に「この先生のナンバーに出れる」ということがステータスになるところまでは確立できていても、 結局20年以上変わっていないんです。ちゃんと食べていく道としては〝ダンサー×〇〇〟というのはポイントだと思っています。それは、今僕の取り組んでいることにも繋がってくるのですが…。

TDM:どういうことでしょうか?

KEIGO:EXPG高等学院での仕事は、今まで繋がれなかったダンサーと繋がれたり、カリキュラムを作ったり、すごく素敵だったので、ずっと続けていてもよかったのですが、自分が何も生み出してないと思ったんです。毎年、安定した黒字も出していたし、もうこれ以上私にできることはないかなと思い、去年の春に転職しました。今は、日本医学柔整鍼灸専門学校というところで事務局次長として「ダンサー×柔整鍼灸」ということにチャレンジしているところです。

 

柔整鍼灸は身体を使うダンスと隣り合わせの領域

 

TDM:柔整鍼灸は身体のケアや治療という分野ですね?どうしてその業界に目を向けたのでしょうか?

KEIGO:ダンスと教育の融合は諦めずに、複数の転職サイトに登録をしていたら、たまたまお話をいただいたんです。柔整鍼灸って身体を使うダンスと隣り合わせの領域で、ダンサーはすごくお世話になっているのに、「ダンス×柔整鍼灸」はあまり聞いたことないなと思って、柔整鍼灸の業界からダンスを融合させて広めていけるような、新しい取り組みができるのではないかとすごくワクワクして日本医学柔整鍼灸専門学校に転職を決めました。

TDM:潔いというか、度胸がありますね!(笑)

KEIGO:それがいいかどうかは分かりませんが(笑)、自分のやりたいことをやると決めているので、多少無理をしてでもやりたいと思ったことはやるようにしています。今務めている学校は、柔整鍼灸の学校のほかにも、リハビリ、福祉、保育の専門学校や、 医療系に特化した専門職大学も経営しています。日本医学柔整鍼灸専門学校は校長が先駆的な方で、「Change&Challenge」という言葉を掲げて、新しい取り組みをどんどんやっていく姿勢にとても惹かれました。ここだったらたくさん学べるし、自分自身のスキルも上がるなと感じ、「ぜひ一緒に取り組みたいのでお願いします!」と言って働くことになりました。

TDM:実際に働いてみていかがでしたか?

KEIGO:毎日本当に学びばかりです。この業界は、社会で求められているニーズと学校での教育がマッチしていない現状があるのですが、今は、そこを合わせていこうという取り組みをしています。 例えば、柔道整復師は国家資格なのですが、整体師は民間の資格なので、柔道整復師のなかには整体師に対して否定的な考え方を持つ方もいるんですが、昨年10月から新しく学生主体で運営するカラデミアという整体院を始めました。

デュアル教育システムという名のもと、学生のうちに手技を学び現場に立ち、お金も稼げるシステムで、生徒が研修を受けて、そこでアルバイトができるようにしたんです。授業外でも、施術のスキルを先生に教えてもらえるのはメリットですからね。これは古い体質の柔道整復師業界においてはありえない取り組みだと思います。

 

 

TDM:基本的な質問なのですが、柔道整復師は、柔道家や武術のためのものではないのですか?

KEIGO:元々はそうでしたが、今は全然違います。僕は「スポーツ整復師」だと思っています。仕組みは変わりませんが、スポーツで怪我をした人たちに対して、骨や筋肉、解剖学や生理学などを全部勉強して、骨折や脱臼をしたときのなどの治療、ケガの予防から整復までができるようになる資格です。医療系の資格だと、医者以外に、現場で応急処置ができるのが柔道整復師です。また、資格取得時に開業できる権利も取得でき、将来的には独立した自分のお店を持つこともできます。

柔道整復師や鍼灸師は、子供の発達や、美容や更年期の悩みや不妊治療、野球肘やテニス肘などスポーツ特有のものなどいろいろな分野の治療ができます。僕は、一家に一人柔道整復師や鍼灸師がいてもいいと思っているくらいです。医者は、手術か薬の処方しかしてくれないので、病院では、実際に手術が必要な人と、手術までは必要ない人の間のたくさんの人たちが置き去りになっているんです。その人たちに実際にアプローチできるのも柔整鍼灸の強みですし、ストレス緩和などメンタルにもアプローチできるので、ダンスに関わらずいろいろな業界にもっと広めていける可能性があります。

TDM:なるほど。今のニーズに合わせた新しい取り組みというのは、ほかにもありますか?

KEIGO:海外の大学と提携をして、海外の美容やリラクゼーションの技術を取り入れたり、学びのDX化といって、いつでもどこでも生徒が予習や復習ができるように、スマホやタブレットで自動的に学習の提案をしてくれるような機能を作っています。それによって先生たちの空いた時間を、もっと生徒の個別面談やケアといった対面でしかできないことに費やそうという取り組みです。

その他の活動としては、ダンス部を立ち上げさせてもらい、高校でのワークショップに加えて、柔道整復師の先生が資格や仕事の魅力を伝えたり、生徒の身体のメンテナンスをしてあげるなどの啓蒙活動をしています。その他に新しく始めた取り組みとして、ダンサーのセカンドキャリアとして柔整鍼灸の道を提案する企画です。

 

柔整鍼灸をダンス業界に広げていくのが自分のミッション

 

TDM:ここでダンスと繋がってくるわけですね。

KEIGO:ダンサーは年齢を重ねると仕事がなくなってくると思うんです。映像など何かダンスに関係する分野に活路は見出しても、自分や人の身体のメンテナンスという分野にいく人はあまりいないなと思ったんですが、ダンスの知識を持っている人たちは「こういうステップやるからここ痛めるよね」とか「ここを痛めたのはこの動きが原因かも」と、 治療家としてどこにアプローチしたらいいかというのも分かりますし、身体の視点からダンスを見ることができるので、ダンサーとしての強みにもなると思うんですよね。

TDM:具体的にはどういった企画なのでしょうか?

KEIGO:元々アスリートのセカンドキャリアの場として授業料の減免制度はあったのですが、そこにダンサーや歌手、俳優や芸能人など、〝アーティスト〟も加えての減免制度を作って欲しいと、校長はじめ経営陣を説得して、〝アスリート・アーティストセカンドキャリア制度〟という制度を新しく立ち上げました。この制度をダンス業界に伝えていくためにはダンサーに実際に入学してもらわないといけないので、実績のあるダンサーに「興味があったら柔道整復師の資格を取得してみませんか?」と連絡をしてみたところ、現役でプロとして活躍しているダンサー3名に興味を持っていただき、次年度から入学してもらうことが決まっています。

ダンサーのセカンドキャリアとしてどう動いていいか分からない人が多いと思いましたが、柔道整復師は身体のメンテナンスでも現役中にお世話になっている業界だし、イメージはし易いと思うんですね。セカンドキャリアの道の一つとして、「ダンス×治療家」という形もあることをもっと広めたいです。今後は、実際入学していただく3人とTikTokやインスタで発信したり、エンタメと融合してダンスを学ぶ高校生にもとっつきやすいような柔道整復師の発信をしていきたいと思っています。ダンスと教育の関わりの中で、もう1つ上のステップである出口の部分を作れたらと思います。

TDM:出口とは、就労や食べていく手段ということですよね?

KEIGO:そうですね。ダンス×教育には出口がないと難しいと気付いたので、高校と出口の間の専門学校で、両方を繋げながら、どういう教育をしたらいいかを考えて、求めている出口を作りたいんです。結局、大学を目指すなら高校でこういう教育しましょう、では、そのいい高校に行くために中学に入って、そのいい中学のためにいい小学校・幼稚園に入って…と、教育は上から降りてくるじゃないですか。

大学の受験制度がこうだから、高校の授業はこうしようというのが生まれてくる。ということは、大学や専門学校が変わらなきゃいけない。だから、この制度を立ち上げることで、「ダンス×柔道整復師」がメジャーになってくれば、ダンスを学んでいる高校生たちが、柔道整復師を目指すようになるという未来を目指しています。

今、本校の教育活動の一環として、企業などと提携しながら現場に行って施術をさせてもらい、実際に経験して学ぶということも計画をしています。現場としても、役者やダンサー、歌手やスポーツ選手などのメンテナンスがお金をかけずにできるメリットもあります。そこで生徒が育てば、もしかしたら専属のトレーナーや治療家として就職できる出口も作れるかもしれないと思っています。

TDM:それはいろいろな面でダンサーの可能性が広がりますね。

KEIGO:高校のダンス部に柔道整復師を派遣して、ワークショップ的に身体のメンテナンスや、「こういうことやると生徒たちの怪我が減りますよ」というセルフコンディショニングを教える活動を増やしていきたいと思っています。

うちの専門学校に入ってくださいということではなく、まずは、怪我防止や、怪我後のリハビリやテーピングのやり方が分からないといった、困っていることを解決するようなワークショップをパッケージ化して高校を回って、各部活動のお困りごとを解決し柔道整復師の魅力を伝えていきたいです。

いろいろな回り道をしてきましたが、さまざまな取り組みをしているこの学校が、僕の経歴を面白いと思って採用していただいたので、柔整鍼灸をダンス業界に広げていくのが自分のミッションだと思っています。

TDM:「ダンス×柔道整復師」が広がる未来を期待しています!今日はありがとうございました!

 

 

interview & text by Yuri Aoyagi

interview & photo by AKIKO

’25/02/13 UPDATE

 

 

日本医学柔整鍼灸専門学校をもっと詳しく知りたい方はこちらチェック!

 

About the author / 

tokyodancemagazine

Related Posts


Post Tab

最新イベント