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エアリアルスタジオMission STAGE ONE特集 KAERU~前編~

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B-GIRLの第一世代を築いたKAERU。今では、エアリアルダンサーとして活躍している彼女のたくましく、ROCKなこれまでを語ってもらった。2016年8月に渋谷にオープンするエアリアルスタジオMission STAGE ONEには、彼女の指導のもと、きっと多くのダンス魂を持ったアーティストが集う場所になるだろう。これからのダンス×空中パフォーマンスとの相乗にも期待したい。インタビュー前編は、ダンスを離れていた時期や伝説のチーム名が登場する過去のエピソードをご紹介。

 

  • KAERU

kaeru1幼少期6歳で器械体操に触れ、日本体育大学 体育学科を卒業。卒業後、代々木にあるブロードウェイダンスセンターにてJAZZダンスを習得。ニューヨーク公演のメンバーとして出演する。同時に、HIP HOPやBREAKINGを学び、ROCK STEADY CREW JAPANのメンバーとして活動。また、原田薫、石川浩子とともにHIP HOP JAZZスタイルを確立したダンスグループAh-puを結成。その後、ケガを理由にダンスを離れたものの、空中パフォーマンスであるエアリアルに出会い、浜崎あゆみのライブパフォーマーとして活躍。パフォーマーとしての一線を退いたのち、エアリアルパフォーマー育成のため、INSPA洗足池にてスタジオを設け、エアリアルパフォーマーの排出と、独自の「エアリアルダンス」を開発。輩出したパフォーマーは、シルク・ドゥ・ソレイユ登録パフォーマーや、サンリオピューロランド、浜崎あゆみライブステージなどで活躍をし、高い評価を得ているとともに、国内外で活躍するエアリアルパフォーマーから絶大な信頼と支持を得ている。
2016年8月活動の場所を渋谷MISSIONに移し、より多くのエアリアルパフォーマー活躍の場を広げるため”Kaeru Project”が始動する。

 

 

 

当時の私はB-BOYになりたかったから。

 

TDM 私は、ブレイキンのダンサーとして一方的に初めて認識しておりました。 その後は浜崎あゆみさんのエアリアルパフォーマーとして活躍され、直接お仕事で交流したのは、BLUE TOKYOの作品「Black」で再会した時ですかね。エアリアルダンサーとして、廻修平くんが頑張ってくれた作品でした。振りかえると、あれが、多くの人が初めて日本のダンスシーンとエアリアルとの融合を生で見る機会になったんでしょうか。

 

 

KAERU 記録には残ってないけれど、その前に、SLAVEという公演や、その後も第1回目のWORLD DANCE COLOSSEUMでティシューをやったよ。Chiiからの紹介で、元をたどるとAh-puのつながりだね。

 

 

 

TDM Ah-pu!!大好きでした。創立メンバーはどなただったんですか?

 

 

KAERU 原田薫、石川浩子と私がスタートだった。OHJIさんが企画したイベントで「3人で何かやってよ」と言われて、そのイベントだけでやるつもりだったんだけど、どうも評判がよくて、それから、地方とかいろんなところに行ったね。

 

 

 

TDM 当時、ダンスで地方に呼ばれていたのは、BE BOP CREWかAh-puだったのではないでしょうか。ストリートの先駆者として活動されていたんですね。

 

KAERU
p01うん、あっという間にダンスグループが増えていったのを目撃したね。博多で踊った時は、BE BOP CREWのYOSHIBOWさんが最前列の真ん中で見ていたので、興奮したなー!それと、まだ10代だったYOSHIEとMICHIEちゃんも出てて、「九州はすごい!女が強いのは九州だな!」って思った(笑)。彼女たちには色気があった。私には色気が全然なくて、当時、B-BOYになりたかったから。まだB-GIRLという概念がまったくない時代で、B-BOYのビデオしか見てなかったよ。まだ、器械体操の選手だった時、実家が阿佐ヶ谷なんだけど、すごくマニアックなレンタルビデオ屋さんがあったの。そこに、『ワイルド・スタイル』とか『ビート・ストリート』とかが置いてあった。当時のサブカルなものを店長さんが好きだったんだろうね。それで、ダンスの臭いのする映画という映画は全部借りて、片っぱしから見ていたの。『ワイルド・スタイル』を初めて見た時に、ポカーンとなったよね。「意味わかんない。なんか怖い感じがする。でもかっこいいな。」と思った。それから『ビート・ストリート』のバトルのシーンを何回も見て、「これどういうことなんだろう?」と、すごく衝撃を受けたんだよね。すごく自由を感じた。抑圧された体操界にいたからかな。すごく自由に、生き生きとしている若い人たちという印象がすごくあって。

 

ミュージカル映画にも影響を受けた。特に『ヘアー』。きっと、空中パフォーマンスを初めて目撃したのは『ヘアー』だった。そのレンタルビデオ屋さんにはこういう映画とかもあったんだよね。・・・って、今日は私のオタクっぷりがバレていくね(笑)。ま、結局、ただのオタクなんだよね。しかも度を超えたオタクだと思う。だから1つはまっちゃうとどっぷりになっちゃうの。

 

 ■自分自身に完全燃焼できなかった。自然に離れていった。

 

TDM
KAERUさんにとってB-BOYのかっこよさとは?

 

KAERU
私が1番最初に感じたかっこよさは「いびつ」。そこに芸術性を感じてしまったんだよね。「なんだこの美しさは!」と感銘を受けた。当時、体操選手だったから、全部、すごくまっすぐで、“まっすぐ is BEST”みたいな世界。足がまっすぐ180度開くのがベストな世界。B-BOYはそれをことごとく裏切るフォルムと、つなぎと、ねじれ具合。当時、ROCK STEADY CREWとNEW YORK CITY BREAKERSが台頭していたんだけど、NYC BREAKERSのICEY ICEが一瞬ねじれたところからの「ブルン」という加速するところは、もう「おお!このねじれた軌道はどうなっているのか?」ってワクワクしてたんだよね。でも、私がブレイクダンスにはまっていた時期が、多くの人とずれていた。当時、ランニングマンとかニュージャックスイングの全盛期なのに、私ブレイキンにはまっちゃったの。たぶんB-BOYの世界だと、一時期氷河期というか、消滅しそうになっている時があったんだけど、ちょうどその時にスリーステップをはじめたんだよね。当時、WASEDA BREAKERSの男の子にフットワークとかAトラックスとか大技系特集のビデオを編集して作ってもらってたんだけど、HORIEさんとNAOYAくんの動きだけを集めたビデオを作ってもらってた。p04

練習場所に、後のROCK STEADY CREW JAPANのメンバーになるSARUが来てて、その子がHORIEさんのスクールに行っていたから、「HORIEさんのスクールでフットワークとか教えてくれるの?ちょっと生で見たくて。」ってミーハー心で最初、そこで見学していたの。そしたら、全然フットワークやらなかった(笑)。当時はブレイキンじゃなくて、もうニュージャックスウィングが流行ってた頃だったから。

 

正直に話すと、立ち踊りを習いたい気持ちはあんまりなかったんだ。HORIEさんのフットワークが見たいという気持ちだけでそこのスタジオに行ってた。どうしても生で見たかったの。でも、クラスの最後にフリータイムがあってさ、HORIEさんからたまに一瞬出るんだよね。「おー!もうちょっと見たい!」ってワクワクしたな(笑)。

 

 

TDM
フットワークは結局できるようになったんですか?

 

 

KAERU できなかった。首のヘルニアになっちゃったの。本当はフットワークから、ニューヨークスタイルに入って、ウィンドミルを抜いて、バックスピンをやって、ヘッドスピンをするという、その一連の、バックヘッドまでができるようになりたくてやってたんだけどね。それが何歳くらいだったっけなぁ。ブレイキンはじめたのも遅かったからな。21、2歳くらいかな。その後、ブレイキンがまた盛り上がってくる頃には、ブレイキンできる体じゃなくなっていた。だから、自分自身に完全燃焼できてない感覚があって、それで自然に離れて行っちゃったんだよね。

 

TDM そこからエアリアルに入ったんですか?

 

 

KAERU まだ。ブレイキンの前にBDCでジャズダンスもやった。ブレイキンはその後。ジャズからブレイキンに入ったのは、もともと体操で膝を痛めていたのもあるけど、足首の靱帯を切っちゃったの。入院中に右足に長靴みたいなギブスをしていた。ギブスをブンと振ると勢いが付くんだわ。「あ、これすごい振り子になってバックスピン回りやすい。よし!足が治るまでにウィンドミルを抜けるようになろう!」と思って、人がいなくなった病院のロビーでやってたのね。それでギブスを壁にぶつけて割ったりして、看護師さんに「あんたは本当にもう知らない!自分で修理しなさい!」ってテーピング投げられて、自分で割れたギブスとか修理してた(笑)。私は大体、いろんな場所のスポーツ障害と言われるような怪我一通りやっちゃったね。

 

TDM
それからどのようにエアリアルに移行されるんですか?

 

 

KAERU
ブレイキンは、いろんな身体の故障が多すぎて、思っているように全うできなかった。それでも、周りはどんどん盛り上がって行って、ROCK STEADY CREW JAPANのメンバーにまでなってしまった。その前にCrazy-A & The Posseでの活動もあるね。新宿の東亜会館にあったディスコ、センチュリーでアキラ(Crazy-A)さんに「KAERUちゃん」って最初呼ばれて、「何でアキラさんが私の名前を知っているんだ!?」と思った。当時、私はCrazy-A & The Posse大好きで、WATCH MEというクラブチッタとかでやっていたヒップホップイベントがあって、お客で行っていたの。出演者よりお客さんが少ないくらいで、3列くらいしかお客さんがいないような時に、最前列で見てた。ラッパーがいっぱい出てて、若きRhymesterとか、B-Freshとか、GAKUちゃん(GAKU-MC)とか、EAST ENDがEAST END×YURIになる前で、RIP SLYMEのSUさんがバックダンサーでついていた頃だよ。お客として見てたな~。

 

当時のアキラさんBig Daddy Kaneぽくて、かっこいいなと思ってた。ちゃんねるずとマーちゃんという女の子のバックダンサーがついていた。アキラさんから声をかけられた時、MIKAちゃんが腰を痛めたか何かで、女の子が1人足りなくなっちゃったから、「今度ライブがあるんだけど手伝ってもらえないかな?」と声をかけてもらったのが最初の出会い。びっくりだよね。今でも覚えてる。その時、SARUも一緒で、その後にアキラさん、CHINO、SARU、私という謎のメンバーで中華料理屋に行った。SARUと私は緊張してご飯に手がつかなかったな。

 

当時、ニット帽をかぶって、ディスコやクラブみたいなところに行って、ブレイキンやっている女の子いないから目立っていたのかもしれないね。

 

Crazy-A & The Posse:1990年代初め、Crazy-Aと共に活動したヒップホップグループ。メンバーにはDJ Beat、Chino&Koji(ちゃんねるず)をメインメンバーとして、AOP, MASAMI, KAERU, MIKA, SARU, GORI, RINGOなどがいた。

 

 

TDM B-GIRLとして日本での第一人者になるのでは?

 

KAERU p03よくそう言われるんだけど、私はそうは思ってないんだよね。東京BE BOP CREWにもすごくかっこいい人がいたからさ。その人が新宿の東口の駅前の舞台でバックヘッドをやってたの。初めてビデオ見たとき、女でもやっている日本人がいたんだって思った。だから私の中ではその人なんだよね。つい最近もFacebookに昔のテレビ番組が、私の名前がタグ付けされて流れてきた。記憶に無いし、自分がいけてないの。本当に体ボロボロで、思うように動けてないし、そこに気持ちが伴っていなかったから、バトルして男の子のグループに勝っているんだけど、全然勝ててない。いまだに自分的には本当に申し訳ないという気持ちしかない。今までこういう話も、誰にもしなくて封印し続けて来た。言ってはいけないような気がして、黙ってきた。それを「いい」と言われてしまうのがすごく苦しくて。その時、私は、実際はブレイキンに対して自分の気持ちが折れていた頃だった。自分の気持ちとは裏腹に、ブレイキンのシーンが盛り上がってきちゃった狭間だった。先輩のNAOYAくんとかは、私のそういう状況を見ていて、その収録が終わった後、「あんな恥ずかしい、やる気があるのかないのかわかんないようなことをやるんだったら、もうやめちまえよ。」って超怖い感じで言われた。「は!」ってなったね。それは1番自分がわかっていたから、言われてしかるべきだなと思った。

 

その時もCHINOは「仲間だって認めているからそういうふうに言ってくれるんだよ。」って言ってくれたけど、自分はそうは思えない精神状態になってた。それで、自然にフェードアウトしちゃったの。OHJIさんにも「お前が辞めてどうするんだよ。B-GIRL育たないよ」って怒られたな。でも、その時すでにコロールとか、大阪のマイちゃんとかB-GIRLの子が育ってきていて「大丈夫!」と思った。

 

 

後編に続く

 interview & photo by AKIKO & imu

’16/07/21 UPDATE

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